Koguma

自由に生きたい韓国マニアのゆったり生活

自分の感覚や感情を認めてはじめて、周りを思いやれるようになるのではないかというお話。

 

どうも、そみ(@somi_koguma) です。

 

先日、このようなツイートをしました。

 

日本は物質的には豊かな社会ですが、心が豊かでない人が多い社会だなーと思うことがありまして。

身の回りやネット上を見渡すと、他人が感じている感覚を真っ向から否定し、ないものとする人が非常に多い印象を受けます。

 

私も人生の中で幾度も他人に感情や感覚を否定され、また自分自身も長年にわたって自分や他人の感情や感覚を否定してきました。

 

自分のことも他人のことも好きになれない長い長い学生時代を経て、やっと自分の感情や感覚を肯定できるようになってきたのですが、不思議なことに同時に他人も少し尊重できるようになってきたんですよね。

 

あれ、これってどういうこと?と思い、いろいろ考えてみました。

今回はそういうお話を少し。

 

 

痛みを否定する人たち

 

他者に心の内や、感じている痛みを伝えたとき「そんな程度で辛いと言うな」「もっとひどい状況の人はたくさんいる」「気のせいじゃない?」「誰もが感じてることだ」と言われたことはありませんか。

日本社会では自分の感覚よりも他者の機嫌や集団の空気を優先するよう教育されるので、非常にもっともらしいことのように聞こえるんですよね。

空気、世間の目は日本人にとっての宗教みたいなものですよね。

 

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でもこの言葉はよく考えればおかしい。

どうしてかというと、相手がどんな気持ちなのか、どれだけ辛いのか、どんな感覚を持って生きているのかは自分のちっぽけな物差しでは測れないからです。

これは当たり前のことですが、意外と多くの人が意識できていないことでして。

 

常に”みんな”という基準に合わせて生きてきたので、自分と他者との境界線が曖昧になっていて、ついみんなも同じだろうと考えてしまうんですよね。

 

しかし自分と他者は全く違う感覚と身体を持っているので、”自分はこう思うから相手もこう思うだろう”、”自分もこう感じているから相手もこう感じているだろう”という思考はとても傲慢なものだと思うんです。

 

いじめの痛みをないものにされた学生時代

 

ここからはしばし私の体験談にお付き合いください。

 

私が”痛みを否定された”とはっきり感じたのは学生時代の頃。

思春期真っ盛りの頃、私は学校の集団生活に馴染めず、しかも特定のグループに目をつけられていました。 

今から思えば、私は思ったことや違うと思ったことをはっきりと言う正直者だったので、教室では空気を読めない奴だったのかもしれませんね。

ま、それは置いておいて、友人も数人いて、いじめの度合いはあまりひどくなかったものの校門をくぐると吐き気がするようになったので、さすがにこれはまずいと思い、勇気を振り絞って担任に相談することにしました。

 

当時の担任は、腐りきった教師達の中でも比較的話を聞いてくれそうだったので、何か良いアドバイスをしてくれるかなと少し期待をしていたのですが、教師の口から飛び出したのは「気にし過ぎじゃないかな。それくらいはよくあることだからね。」という言葉でした。

それもちょっと馬鹿にした感じで。

はい、いつもの中2病ね、と言わんばかりの表情でした。

 

辛くてたまらなかったのに、この辛さを全否定された気持ちでした。

私が感じているのは明らかに”痛み”なのに、どうして感じていることをあたかもないもののように話すんだろうと悔しくてたまりませんでした。

 

我慢してきたから周りも我慢しろという歪んだ感情

 

それ以降、誰にも”痛み”を打ち明けることなく、地獄のような義務教育時代を過ごしたわけですが、恐ろしいことにそれまで天真爛漫だった性格が歪み、他人を否定し、自分の感情や感覚をまでも否定するようになっていきました。

 

”みんな”に合わせられない人は、それが自分であれ他者であれダメな奴だ。

本気でそう思っている時期が数年続きました。

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幸い、その後読書や外国での生活を通じて、少しずつ元の性格に戻ってきましたが、思春期のあの経験で自己肯定がどれだけ大切か、他人の感覚を全否定することはいかに罪深いことなのかを思い知ったわけです。

 

おそらく現在日本社会で問題となっている弱者叩きは、そういった人々の拗れた感情が原因になっているんじゃないかなと思うんです。

 

感じていることや痛みを否定されると、自己肯定感が低くなる。

そしてそれが拗れて、他者を否定してしまう。

今の日本社会はこういう悪循環になっているのかなと思います。

 

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何かを感じたとき、正直に認めてあげること

 

こんな悪循環になった社会で「思いやりは大切です!」「いじめはやめましょう!」といった学校に掲げられているスローガンみたいな言葉は何の役にも立ちません。(人の扱いがひどい組織に限って嘘くさいスローガンで解決しようとしていますが...)

 

私なりにどうしたらいいのかなーと考えてみたのですが、やはりまずは自分が自分の感覚や感情を認めてあげることが一番なんじゃないかなと思います。

 

他人を思いやる前に、まず自分を思いやる。

身体の底から湧き上がってくるものを正直に受け止める。そこからじゃないかなと。

 

悲しいのなら「こんなことで悲しむ自分は情けない」と思うのではなく「私は今悲しいんだな」と感情を認めてあげる。

直感で「これは違う気がする」と感じたのなら、可能な限りその感覚にしたがって行動する。

判断や行動の基準を他者ではなく自分に移す。

 

そういったことの積み重ねが、揺るぎのない自己肯定感につながっていくんだと思います。

 

他者と同じ感覚、身体を持っていると思わないこと

 

そして自分を思いやると同時に、”みんなと一緒教育” の洗脳から抜け出すことも大切でして。そのためには周りの人と自分が全く違う人間であることをしっかり頭に叩き込む必要があると思います。 

 

そして目の前の人が感じていることが全くわからなくても、共感できなくても、真っ向から全否定しないこと。

その人の感情を尊重すること。

理解、共感できないけど、あなたが感じている感情や痛みは本物だ、と。

 

もちろん理解できないことに100%共感する必要はありませんが、最低限目の前の人が抱えている感覚に最大限想像力を働かせて接することが大切かなと思っています。

 

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自分の感覚を認める→他の人の感覚も尊重できる 

 

最近はコロナウイルスのせいで人間の嫌な本性がたくさん見えてきて、病んでいる人が多いなあと思っているのですが、そういった人たちの心の根っこには傷ついた過去の記憶があるような気がしてなりません。(もちろんそれだけが原因ではありませんが。)

 

悪いことをしたり人を傷つける行為を肯定しているわけではありませんが、自己肯定感の低さはこれほど人を邪悪なものにするのだなと、改めて心が荒まない社会の実現、教育の必要性を感じることが多いです。

 

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日々の生活の中で可能な限り自分の感覚を肯定し、そして他者にも想像力を働かせながら生きていく。

と同時に、心を痛め、自分も他人も思いやれないような今の日本社会を変えていく努力をする。

これからもそうやって生きていきたいと思っています。

 

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