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外的な節目ではあるけれど、いつものように買ってよかったものと本の記録を少し。
ハンドブレンダー
何年もカートに入れたまま、なかなか購入に踏み切れなかったハンドブレンダーをやっと購入した。この手の調理器具は嵩張るから収納にも困る。しかもミキサーもフードプロセッサーも家にあるのにこれ以上要らないよな...と保留にしてたのだけど、YouTubeの料理チャンネルを見るたびにやっぱりほしくなる。
春頃、期間限定のまとまったポイントを使い切らなきゃいけなくなり、今だと思い、えいっと購入。
結果、料理の幅が広がり(特にスープやソース作り、デザート作りに便利)今まで時間がかかってた料理もスムーズに作れるようになって大満足。
ただやっぱりひとつひとつの部品が大きめだから嵩張り問題はあるっちゃある。
個人的にホイッパーはあまり出番がないから、ハンドブレンダー単品購入でもよかったかなーというのが半年使ってみた感想。
けど、性能や使い心地は文句なしです。
かぼちゃスープ
ガスパチョ
ジェノベーゼソース
ビーツフムス
じゃがいものチヂミ
にんじんジャム
オートミールブラウニー
豆腐クリームチーズ
買った当初は嬉しさのあまりあれもこれも作りたくなって、ついvlogへの登場率が高くなってしまった。
オーブンレンジ
3年前にオーブンが故障し、そのままオーブン無しの生活をしていた。
家のみんなは別になくてもいいんじゃない?という感じだったから自腹で買うことも考えたけど、今年は治療費などの出費が多くてお財布がつらい。
てなことで、オーブンがあったら食べられるであろうラインナップを粘り強くプレゼンした結果、お金を出し合って買うことに決定。
これまでの経験上、あれこれ機能がついてる家電は壊れやすい傾向にあるから、今回は最低限の機能がついてるものを選んだ。
耐久性は使い続けてみないとわからないけど、価格も手頃でデザイン性もいいからいい買い物をしたなーと思ってる。
ロジクールのマウス
以前もブログで紹介したロジクールのLIFT。
買ってから9ヶ月経ったけど、今のところ快適に使えてて欠点も見当たらず。
仕事柄、毎日最低でも5時間くらいは握りしめてる私は形が少しでも合わないとすぐに手が痛くなる。でもこれを買って以降、まだ腱鞘炎再発してない。やーーっとマウス選びに終止符を打てそうです。
買った当初は案の定、手垢や汚れが目立ちやすくて、ホワイトを選んだ宿命だなーと諦めてたのだけど、最近無水エタノールで拭き取れば綺麗になるという裏技を知って、今のところ本来の白さを保てている。
壊れたらまた同じものを買いたいくらい気に入ってます。
マグネループ
昔から年配の人がつけてるイメージが強くて敬遠してたマグネループ。
でもあまりにも肩こりが辛すぎて藁にもすがる思いで調べていると、目立ちにくくて軽い(おそらく若い世代をターゲットにしてるのであろう)airyfreeというものが発売されてて、試しに買ってみた。
着用を初めて3ヶ月経った今、毎日とても好調で、同じく肩こりに悩む家族や友人に布教しまくっている。
今回試したAiryfreeは一番磁力が低いもので即効性はあまりないのだけど、5日〜10日ほど日中も寝る時もつけてると、あれ?そういやちょっと肩こりのこと忘れてた....とじわじわ効くタイプ。さらにつけてることを忘れるほどの軽さだから、ネックレスで肩が凝る私でも負担なくつけていられる。
多少の肩こりはあれど、頭痛や目眩が出るまでひどくならないから、お守りのように身につけてる。
足裏バンド
足の治療の過程で気になって買ってみた足裏バンド。
足底筋膜炎や足のむくみ、だるさに効くそうで、土踏まずにセットしてみると確かに数分で足裏がじんじんと温かくなる感覚が。
マグネループによる絶大な信頼があるとはいえ、初めはプラシーボでは...?としばらく半信半疑で使用。
で、約3ヶ月間ほぼ毎日使ってみたのだけど、つけて寝た日は明らかにむくみもマシだし、日中冷えて土踏まずがつりそうな時に装着すると足裏の筋肉がみるみる柔らかくなる。
まだ足がくたくたになるまで歩いた日に試してないから疲労回復効果は未知数だけど、軽いし洗って何度も使えるし、旅先のフットケアアイテムにもよさげ。
やたらと高評価でSNSでも絶賛されてたから疑いかかってたけど、すっかりないと困るケアアイテムになってしまった。
ここからは本記録
1年の半分以上不調に悩まされてた今年。集中力を保って活字を追うことがきつくなったのはフリーランス1〜2年目の仕事がない時期以来。
普段外部との関わりが少なめな私にとって、テキストを読むことは他者に会う、社会との接点をゆるく維持する行為でもあるのだけど、それができないとこうも塞ぎ込んでしまうのだなと痛感した。
てなことでつい最近まで読書記録もろくにできてなかったから、冬に読んだ本の中から3冊ピックアップしてみることに。
風をとおすレッスン
互いのことはどこまでいっても、けっして完全にわかることはない。それはコミュニケーションをするうえでの重要な前提だ。人と人との関係では、どっちかが「わかった」といった瞬間にコミュニケーションは終わってしまう。「わかった」とは、こちらの物差しで相手の内心を推し量り、そのイメージを固定してしまうことだからだ。逆に、わからないもの、未知のものがあると思うと、コミュニケーションが続いていく。自分には見えていない世界を相手は見ている。そう感じる時、人は謙虚になる。謙虚になるとは、相手が秘密にしておきたいこと、いいたくないことを、あえて聞き出さないことでもある。相手の心の中を、こちらが想像して、勝手に「こうだろう」と決めつけるのではなく、そのままにしておく。相手の内心を読まないのは、相手の尊厳を守ることにも通じる。p58-59
人は生きていくうえで対話的空間にずっととどまれるわけではない。不本意なことを受け入れなくてはならないこともある。どっちが正しいかを決めなくてはならないこともある。それによって傷つくこともある。しかし、傷つかないために対話をするのではない。むしろ逆である。互いが安全に傷つくためにこそ対話がある。人は傷つくことなしには生きられない。生きるとは傷を受け、そこから回復することのくりかえしにほかならない。傷が取り返しのつかないほど深くならないようにするためにこそ対話をつづけるのである。p70
相手との親密さを維持する。相手が自分とは違う世界を見ていることを認める。
この両立がずっと難しい。
幼少期から教わってきた「寄り添うこと=共感すること」がこべりついているせいか、しっかりと話を聞く前に軽率に反応してしまうことがある。
自分の想像力の範囲内に相手を閉じ込めてはいけない!と頭ではわかっていても、いざ人を前にすると人とやりとりすることへの苦手意識から滞りのないコミュニケーションを優先してしまい、あとで悔やむなんてことを何度も繰り返している。
「あなたのことは完全にわからない。それでも....」と、閉ざすのでもなくわかった気になるのでもなく手を取り合う。自然にできるようになりたい。
災間に生かされて
放射能や放射性物質は見えないし、色もなく、形もなく、重さもありません。線量計によって数量化することなしには、その存在すら捕捉できないのです。だから、不安がつきまとうのは当然なのです。そして不安はけっして数量化することができないことにも自覚的であるべきです。情緒的であるに決まってるのです。
しかも、数字がしばしば、客観性やら学問的な装いやらを凝らしながら、巧妙に人を欺くことも知りました。数字は人を去勢し、思考停止の状態へと追い込んでいくのですね。数字を掲げて巧みに他者を批判する者が、なんとも恣意的に数字を操作しこねくり回す姿に遭遇して、脱力感に襲われたことが、幾度となくありました。ふくしまの声はいつだって数字に踊らされ、翻弄されてきました。それが原発事故以降の歳月を歪めてきたのではなかったか、と思うのです。
だから、とうてい、ふくしまの声など語ることはできません。だれも代弁者になどなれないのです。そのことの自覚からしか、どうやらなにひとつ始まらないらしい。
恥じらいなしには語れない、などといえば、笑われるに決まってます。眼に見えないモノと対峙することを、日々強いられている場所では、その恥じらいの有無こそがリトマス試験紙になるのかもしれません。p18-19
幻影の境界線がある。いや、境界など、残らずまぼろしなのだ。世界を二つに分ける、内と外、こちらとあちら、味方と敵・・・・・・、こうした二元論に根差した暴力に向けての懐疑と批判を深め、鍛えてゆくことが求められているのです。幻に過ぎない海岸線を、海辺の砂地に固定しようとする、コンクリートで固める。防潮堤を造る。ゆらゆら揺れている、ほんの偶然の所産でしかない、そこに、そのとき、たまたま引かれてあっただけの境界線を、神々が棲まうウブスナの杜の山を切り崩して、防潮堤を造成する。そのマッチョな妄想というか、想像力の貧困というか、そろそろ訣別しなければいけないときだと思います。p115
いまも、これからも、必要な言葉ばかりだった。
震災以外にも当てはまるけれど、歪められた被災者像、被災地像を塗り替えていく作業を根気強く続けなきゃいけないなと、大きな物語を目にするたびに思う。
未知を放つ
どうしてもそうなってしまうこと、名前のついていないもの、なかったことにしてしまいそうなもの、抱えたままの感情、いびつに見えるもの。それらはとても愛おしい。誰でもないその人が放つ未知に触れ、静かに圧倒される。p2
既存の概念に迎合しようとする。受け入れてもらうために自分を低く見積もる。誰かがどうにかしてくれるまで待つ。ほころびやいびつさから目を背け、見ないフリをする。それらの行動は自分の可能性を制限するようだ。
迎合しているように振る舞うことで世の中がまわっているとしたら、それはほんとうに機能していると言えるのだろうか?
違和感やいびつさ、まるごとを感じることが持続可能な生、なのかなと思った。p43
名前のついていることからはみだしてしまう。普通に迎合できない。
社会で当たり前だとされていることができなかったり、拒絶したくなるラインが近かったり、なんとなく親近感を覚えながら読んだ。
くくることも、くくられてしまうことからも卒業したい。いびつさは弱さではない。
ほんと、そうですよね...と何度もうなづきながら読んだ、ゆるやかな連帯を感じられるエッセイでした。
途中、レビー小体型認知症の話が出てくるのだけど、患った人を間近で見た身としては少し複雑な気持ちになった。
わたしも筆者のように幻視を頭ごなしに否定するのではなく適度にのってあげたり、病人ではなく最後まで尊厳をもった一人の人間として接するべきだったなとか、当時幼かったにせよ過去の自分の言動を少し恥ずかしく感じた。